結果はだせない。でれば良し。
人から褒められるのが苦手だ。
けれど同時に、人から認められたいという思いも強い。
その二律背反の中に、僕という人格が居座っている。
人から褒められるのが苦手な理由は、
僕を褒める人間を、僕が信用できないことにある。
僕のようなものを評価する人間の存在を、どうにも肯定できないのだ。
それどころか、僕の見ていないところでは僕をコケおろしているとさえ考えてしまう。
「お前を褒める人なんているわけねーだろ、浮足立ってると足下すくわれるぞ」
僕の心理の底のほうは、そのような思考が泥のように渦巻いている。
求められた課題に対しては、結果は必ず必要だと思いこんできた。
いや、いまでも結果という1つの形に随分と囚われている。
それも根っからの貧乏性なので、
余すところなく、ベストな結果ということに固執している。
機会損失とか、コストパフォーマンスとか、歩留まりとか、
高い効率を求めるワードが、課題へ向かう僕には必ずつきまとう。
ところが、僕のような人間には、
そんなミラクルな結果を出すことは万に一つの確立だ。
60点取れれば御の字、80点取れれば記念写真の1枚でも残したくなる。
そのせいか、これまでの人生で「結果をだせた」という感動経験に乏しい。
60点とっても、80点とっても、90点とっても満たされない。
それどころか、取りこぼした10点〜40点を大いに反省して暗い闇に沈んでしまう。
結果が全てと、よく言われるけれど、
結果なんて本来は行動が結実した成果に過ぎないのだ。
行動した結果が10点でも20点でも30点でも、それが結果なのだ。
だから、結果が全てではない。
行動が、結果に至るまでの過程こそが全てなんだと思う。
だからこそ、行動を頑張った自分に満足できたなら、
どのような結果になろうとも、自分を労っていきたいものだ。
今は、そんな風に思えるようになった。
更新作業
立ち上げては削除、
立ち上げたは削除、
もう、何度繰り返したかわからないのだけれど、
今日またこうしてブログ記事を書いているということは、
案外僕は「書く」という行為については肯定的なのかもしれない。
なんて、調子にのって綴ってみるけど、
さっきまでこのブログの存在すら忘れていたというのは紛れも無い事実だ。
はてなブログに新規登録しようとすらしていたのだから。
こうした半衝動的なモチベーションで記事を書くのは気楽で楽しいのだけれど、
計画を持ってブログサイトを構築していくというのは、
(ブログの構築に限った話ではないけれど)
とても難しく根気の要する作業だ。
それでいて、僕のように自己満足のような文章体ではいけないし、
変に砕けすぎた文章を書くと、あとで気まずくなって結局は消してしまうし。
目的をしっかりもって、それ以外の一切のファクターへのこだわりを捨てないと
完遂するのは到底ムリだ。
と、自分に向けたメモをしたためてみる。
ちぎりパンを焼いた話。
週末。午前5時半。
普段は3回はドヤされないと起きてこない長男が張り切って早起きする。
ありふれた家族の風景だ(我が家だけか)
そんな朝、オレンジ色に眩い空を見ながらテレビをぼーっと眺めていたのだけれど、突如として退屈感に襲われた。B型特有の「何かしなければモード」だ。
とっさに先日作ったプレッツェルの材料にあまりがあることを思い出した。
「そうだ、パンを焼こう」
直感的に作りたいと思ったのはカンパーニュなんだけれど、道具が足りないようだし、最低限のパン焼きの経験値も必要らしい。それに、今日は出勤日なのでそこまで時間もない。素人にも簡単にできそうな、ちぎりパンを焼くことにした。
といっても作業は至ってシンプルだ。レシピ通りに材料を計ってHBに突っ込んでボタンを押すだけ。1時間もすると生地が出来上がる。
<recipe>
生地ができたら16等分にカット → 生地を休めて → 丸めてトレイに並べて → 2次発酵というかぷくーと膨れて生地同士が密着するのを待って → 160度で25分ほど焼くだけ。
そういえば、昔アメリカで少しだけ生活していた頃、スーパーにはパンの生地が売られていてオーブンで焼くだけで焼きたてのパンが食べられるという製品があったのを思い出した。すごく人気で帰国する際には家族からもリクエストされて、スーツケースの中でパンが膨らんで大変なことになったことがあったっけ。
日本もどこかのメーカーが製品化したら良いのにな。
焼きたてのパンはとても甘くて、ふっくらしてて美味しい。また焼こう。
趣味の話をすると「ふーん」と言われる。我らB型。
凝り性だよねとか、一風変わってるとか。
世の中そんな温かい言葉で濁してくれる親切な人ばかりだと良いのだけれど、多くの場合は「ふーん」と鼻で笑われる。それがB型(少なくとも僕は)の趣味だ。
趣味の定義を根底から語るほどの教養はないけど、おそらくは「1分1秒をどうやって楽しく過ごそうかと創意工夫する活動の一環」ではないかと思っている。
その「活動の一貫」に対する好き嫌いは人それぞれなんだけど、社会不適合者の僕は大勢で楽しむものや、人様から勧めてもらうのが苦手なので、自分であれこれ探すことになる。そして、探す行為そのものが趣味となりつつあって、広く薄くニワカな多趣味人になる。
無条件で楽しめる趣味だと良いのだけど、僕の場合は前提を求められる趣味が多い。楽器とか、将棋とか、釣りとか、知らずに飛び込むとたしかに「ふーん」なんだけど、少しでもその世界の入口を知ると、楽しさがぐんと倍になるような、そういう趣味だ。その手の趣味はたいてい楽しむ人口が少なくて、ニッチで、楽しく語り合う人もあまりいない。
時々、不用意にホロリと趣味の話をしてしまうことがある。皆が昨日観たテレビ番組とか、先週末に行ったイタリアンの話をしている時に、無意識に趣味の話を投下してしまうと「ふーん」と、もうなんとも言えない気まずい空気があたりを包み込んで、どこかへ逃げ出したい気持ちになることがあるのだ。
先週も、流行りの音楽の話になって、ついついその曲の原曲者は誰々で何年に発売されて、なんてポロリしてしまったものだから、辺りは「ふーん」となってしまった。
けれど「全く僕も学習しないなぁ」と反省したふりをしつつ、こういう趣味嗜好でいられることにどこか感謝するのだ。世の中には与えられるだけじゃ、とうてい辿りつけない楽しいことが溢れているのだから。
AppleMusicで音楽を楽しむ環境が戻ってきた。
夏頃からAppleMusicを使うようになって、僕的には音楽を楽しむ感覚を取り戻しつつある。という話。
高校生の頃から買い集めたアルバムCDは1,000枚近くになる。ロック、ジャズ、ブルース、ポップス、演歌まで、なんでもかんでも。
これらのライブラリを10年ほど前に気合でiTunesに取り込んで以降、CDプレーヤーは使わなくなってしまった。PCのフォーンアウトをONKYOのアンプに突っ込んで聞いていたのだけど、いちいちPCを立ち上げるのが面倒になって、音楽を聞く機会が激減した。
都市住まいで電車バスでの通学通勤とあらば、デジタル化した音楽データをiPhoneなんかに突っ込んで往復1時間は好きなアーティストの曲を楽しむだろうけど、こちら通勤には徒歩30秒という環境にあるせいか、そんな楽しみ方はできそうにもない。
唯一、車で長距離を移動するときは、好きなアルバムを持ちだして聞いたりもしたのだけど、子供が生まれて童謡やらアニメソングやらを一緒に聞くようになると、いよいよ僕の音楽環境というのは失われてしまった。けれど、それはそれで大きな喪失感があるわけでもなく、そういうものかといった感じで日々過ごしていたのだけれど。
夏前にお世話になっているバーのマスターにAppleMusicいいよと勧められた。半信半疑でトライアルアカウントではじめてみると、これが楽しい。いや、予想以上に楽しいのだ。20年前にタワーレコードで視聴を繰り返しながらお気に入りの音楽を探したあの頃の感覚がもどってくるような、そんな楽しさがある。
僕のお気に入りリストは、多くが60s〜70sのブラックミュージックなのだけど、そんな出発点から今日の僕にぴったりな音楽に辿り着くことがある。今日は大橋トリオのアルバムを数枚ローテーションしながら、カキモノの仕事をモクモクと消化している。
音楽を楽しむ環境が身近に、そして気軽に、戻ってきた。そんな気がしている。
アラフォー男子、プレッツェルを焼く
時代の流れに逆らうのは天邪鬼なB型人間にとってありふれた日常だ。
だからといって、僕がハイカーボン(炭水化物過多)な食事を連日続けることに関しては、時代とかB型というそういうことをすべて関係無しにしたって少し問題があるというのは十分理解しているつもりだ。
お陰さまで、体重は右肩上がりの昇り龍なのだけれど、ちっともおめでたいことなんてない。
そんな、お題に掛かっているのか、外しているのかよくわからない枕のことは横に置いておくとして、件のプレッツェルの話である。
このドイツ生まれの、塩味の効いたパンが大好きなのだけれど、僕の住む田舎町ではおいそれと食べる事ができない。なので普段手の届かないものと記憶の隅にしまいこんでおいたところ、愛読しているほずみさんのブログで見かけて、どうしても食べたくなってしまった。
それにしても、いつ見てもほずみさんの料理は美しい。まさに女子力高し。ブログの写真も文章もとても、シンプルで凛としていて、おそらく背筋がぴーんと伸びたお方なのだろうと勝手に想像してしまう。
話は戻って、食べると決めたからには朝から近所のスーパーへ出かけて必要なものを一通り揃えた。幸い我が家には家人がかつて愛用していたホームベーカーリーがあるので、パン生地を作るまではインターネットに詳細に記されたレシピ通りに材料を計って機体に放り込むだけだ。
生地を寝かしたり、整形後に落ち着かせたりといったパン作り独特の工程の合間は将棋を指したり、本を読んだりしていたら自然と過ぎていった。そして、使い方のよくわからないオーブンと格闘すること数分、プレッツェルは焼き上がった。
重曹にくぐらせる工程と、その後オーブンへ投入するタイミングがオーブンの余熱の仕組みがよくわからなくてもたついたせいで、発色がいまいちだったのだけど、味は僕が愛してやまないプレッツェルのものだった。
塩味が効いているので、ビールを飲みながら食べても旨い。ビールと合うから好きなんだろうなと思いながら、今夜もついついハイカーボンな食事に満足してしまうのであった。
出席番号7番がギターを買った日。
高校に通い始めて幾日も立たない頃。
出席番号7番の僕に、8番の男子がこう云うのだ。
「学校が終わったら、ギターを買いに行こう」
音楽は割りと好きな方だった。小学生に入る少し前に、そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、両親は僕にピアノ教室へ通わせてくれた。けれど、教室は女子ばかりでどこか気恥ずかしく、僕のピアニストへの道は儚くも終わった。続けていれば神童と呼ばれたに違いないと今でも思っている。
そんな僕に8番は云うのだ。ギターを買いに行こうと。
高校生活が始まって特に熱くなれるものも無かったし、体育会系の部活動で汗を流して青春を謳歌するなんてタイプではなかったものだから、ただなんとなく(その時交わした会話なんて覚えていないくらいに)8番に誘われるがままに楽器店へ立ち寄ったのだ。
8番はギターを前にして興奮気味に話しかけてくる。深夜の洋楽番組で見たヘヴィーメタルバンドのライブ映像が鮮烈だったらしいのだ。いつかはその曲を弾きたいともいう。僕は洋楽といえば、家庭教師に勧められたマイケル・ジャクソンやダイアナ・ロスを聞くくらいで、ジャカジャカと喧しいロックは耳馴染みのないものだった。
ところがどういうわけか(本当にどんな動機だったのかさっぱり思い出せないのだけれど)その日の夕方には僕の部屋にギターがあった。アイバニーズ製の型番も知らない黒いソリッドのストラトキャスター、それにフェルナンデスのトランジスタアンプ。
およそロックミュージックと呼べるようなCDさえない部屋にやって来た黒いギター。それは、夕日が差し込む部屋の片隅に、学習机の角の立てかけるようにひっそりと置かれた。
僕がドラマの主人公だったら、ここらで突如T・レックスの20thセンチュリーボーイなんかをドカンと弾いて、これから始まる青春ドラマの幕開けとなるのだろうけど、生憎現実というのは厳しいもので、チューニングもろくに出来ていないギターを弾いて不良品を買わされてしまったと後悔したのは良い思い出だ。
無論、翌日にはギターチューナーを買って帰ったのは言うまでもないけれど。